てぃーだブログ › Rude Girl › 咲く可憐な雑草

2017年04月20日

咲く可憐な雑草

 カリガネソウはシソ科カリガネソウ属の山野草。球形のつぼみが開いて薄紫のユニークな花が次々と開花する。とても個性的で素敵な花ではあるが、独特の葉の匂いが好ましいとは言えない。この匂いを敬遠して庭に植えない人は多い。私も鉢植えだ。人は五感によって世界を認識するが、この花を理解するとき、視覚と臭覚のいずれを優先するかである。
 先週、またしても救急車に乗る羽目になった。これで三度目である。歩くことが儘ならない父は家族の介護を要し、一たび病を患ってしまうと救急車あるいは介護タクシーに頼らざる得なくなる。検査を終えての結果に胸をなで下ろしたものの、暫く入院が必要とのことだった。だが、父は何事にも問答無用である。医師の指示に従わず、家族の心配も余所に、家に帰ると言い出して僅か三日間で退院してしまった。とにかく頑固で難儀をかける父である。
 家族の中で介護に様々な難事が起こり、背負う負担が余りにも大きいと、時には思いやる気持ちを超えて、それが厄介な重荷となることがある。一体、家族とは何だろうか、とつい考えてしまう。孝心がないのではない。素直に自分の心を見つめてみれば、家族だから当然であるとする否応なしの論理で片付く問題ではないことも確かなのである。
 このように秋の「白さ」とは白色の白のことではない。それは色彩が欠落した、色のない色とでもいうべきものであり、「あるべきものが何もない」ことを「空白」という言葉で表すように、白という色には「何もない」という意味が必然的に込められていることからも理解できる。本来的には色は“ 形” であって、昔から「いろはにほへどちりぬるを」というように、形はどんなに自らの存在を主張しても、所詮は時間とともに崩れ去り、空しく散っていく運命にある。そこで、その「空しさ」を象徴する代表に「白」を選んだ先人たちの感性に私たち現代人が共鳴しても何ら不思議ではない。俳句の世界で秋の季語に「色なき風」というものがあるが、これもこうした秋風の表現として見つめてみると、どこか虚無的なポッカリと開け放たれた空白の寂寥感が身に沁みとおるような感じがする。
 いうまでもなく,風は空気の横の流れであり、黄砂のような特殊な物質が混入した場合などのように、風に色を視覚できるとすれば問題である.また、色は物質でも,光でもなく,電磁波によって網膜上に結ぽれる感覚である。従って、色彩は心理的な感覚にすぎない。色彩が感覚であるとすれば,人によってそれぞれ変わって感じられてもよいはずである。確かに秋の澄み切った大気の中を吹き渡る風は爽やかで、透明感を感じさせ、それを「色無き風」と詠むのは、何となく格好がいい。しかし、それで終えては無減脂意味で、色は人間生活をより人間らしくするための起爆剤となるべきであり、色無き風に向かい、白という無色の秋に “如何に前向きに色をつけていくか” である。自分の気持ちに対して、自分が感じたことに対して「素直な心」を持ち、それを空白の秋空に描いて人生も含めた後悔なき「納得」した一歩を踏み出して欲しいものである。



Posted by Rude Girl at 12:45│Comments(0)
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。